無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

現実的なコストを考えれば「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」が大事。故に「ホラ吹き」の罪は大きい。

▼「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」を重視するという考え方
 
「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」を重視しよう、という考え方があります。気持ちは判る。それが現実的にできればとてもよろしい。
ですが、「何を言ったか」をきちんと検証・論考するのはとても手間(とそれに付随する時間)がかかる。とてもコストが高い。
誰もが好き勝手に発言できるネット社会は、それこそ玉石混交、膨大な情報が飛び交う場になりました。膨大な情報を、いちいち検証・論考するコストは誰にも取れません。だからこそ、情報の信頼性を「誰が言ったか」で判断せざるを得ません。「何を言ったか」で判断しよう、という人は、読み手にその検証・論考コストを求めています。
読み手が、その言論分野に関する専門家であったり利害関係者であるならば、そのコストを取らねばならないでしょう。しかし、多くの場合、読み手は好奇心で読み流しはしますが、検証・論考するコストは取れないでしょう。だって忙しいんだもん。であるならば「誰が言ったか」が重要になることは自明、ということになります。
 
かつては、時間をかけて蓄積された知識でしか、そのコストは購えませんでした。だからこそ、若いうち・学生のうちに先行する議論を体に叩き込んでおく必要があった。知的階級が固定された一因はここにもあったのでしょう。
しかし、今はネットでいろいろ調べることができる。ネットその他で、この検証・論考できる能力のことを「リテラシー」と呼びます。とはいえ、それもタダではない。知的階級の開放性という意味では価値があるネット革命も、検証・論考コストを無視できるようにまではしていません。
 
「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」を重視しよう、という考え方は理想主義的であり、コストを度外視します。コストが合わないものは実現性が低いです。
「何を言ったか」を重視すべき、という人が自らを「現実主義者」だと自認しているならば、ちょっと立ち止まって考え直したほうがいいのかもしれません。
 
▼「誰が言ったか」は「何を言ったか」の積み重ねでしかつくれない
 
しかし、「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」こそが大事なのだと、強く言える現実主義者はいません。
なぜなら、その「誰」の信頼性は「何を言ったか」の積み重ねの上にしかないからです。「何を言ってきたか」という信頼を勝ち取ることが、現実的議論に資するということもまた、解っているからです。そういう信頼を勝ち取ったからこそ、彼の発言には価値があるのであり、言論で収入を得うるのです。
 
議論が循環してしまうようですが、「何を言ってきたか」の検証・論考は、コストを支払って誰かがなさねばなりません。
このコストは、(分野にもよりますが)メディアが支払うべきものです。拡散させる情報の信頼性が商品なのですから。しかし、最近はメディアも苦しい。そのコストを取れなくなってきているように感じます。結果、自称の肩書きだけでその信頼感を詐称する人が溢れるようになってしまいました。旧聞に属しますが、ショーンKさんのホラッチョ事件は、これを象徴しているように思います。
 
▼メディア(的な存在)が、「信頼性アリ」と判定した人物の言論を広く流布がホラ話だったときの害
 
ホラ話は極めて効率が悪い、ということは、おそらく昔から気付かれていました。だからこそ「ウソは良くない」という価値観が生まれたのだと思います。
ウソを言うことのコストの安さに比べて、その欺瞞性を検証するコストの高さは、今も昔も変わらないのでしょう。「神の手」事件によって、日本の考古学界はウン十年分を損失した、という人がいます。それは、その検証に、本来議論を進る為に割かれるべきコストが割かれる、というだけでなく、その上に積み上げられた議論が全て再検証されねばならないからです。
 
社会的な影響度を考えると、いわゆる大量殺人犯よりもよほど社会に害悪を与えるのだ、という自覚を持ってもらいたいものです。
 
とはいえ、間違っている議論が、故意・自覚的に垂れ流れるだけではない、というところが難しい。勘違いを前提に、善意で発信された言論が、結果としてデタラメだった、ということもまた、往々にしてあるからです。
勘違いを元にデタラメを言ってしまうことが糾弾、もしくは弾圧されてしまう社会は、言論に抑制的になってしまい、停滞を招きますから、デタラメを罰するような中世的言論空間に戻してしまうのもよろしくありません。だからこそ「言論の自由」という理念があります。
 
そうすると、ホラ話の害悪性について考えるとき、その故意性は罪の大きさに対して極めて重要な判断基準になることがわかってきます。
故意でホラ話を垂れ流すことは社会の知的コストを莫大に浪費します。
 
ホラ話は大量殺人犯よりもよほど社会に害悪を与える、という大前提の元に立つと、疑義のある言論が、その疑義と相対したときに、それを発した人がどのような態度を取るかが、その故意性を測るひとつの指標になるかもしれません。
 
間違いだったら訂正する、という態度の人は、ウソの害悪性を認識しているように思います。したがって、本当に勘違いだった可能性が高い。
逆に、疑義を無視したり、逆に攻撃したりするような場合は、故意でガセを流していると思って良いのではないでしょうか。その害悪性を認識していないか、その害悪性よりも保身を優先してしまっている可能性が高いと考えられるからです。