無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

受容的な理念が支払い続けなければならないコスト


受容的理念は、その理念そのものの否定をも受容しなければ、理念が掲げる本質的受容性を全うすることができない(本質的矛盾から自由でいられない)。
これは、その理念による支配の継続性にとってきわめて大きいリスクである。

そのため受容的理念は、多くの場合において、理念そのものに対する否定だけは拒絶する、という運用がなされる(例:「戦う民主主義」)。この際、受容主義じたいのベネフィットを重く見て、原理的受容主義の本質的な矛盾には目を瞑ることになる。



障碍者は要らない」に対して、「『障碍者は要らない』とする者は要らない」というレトリックが持ち出されたわけであるが、障碍者を受容するという理念を守るためには、「障害者は要らない」という考えは拒絶するしかなく、拒絶された側はこれに被差別性を感じるしかない。

往々にして問題になるのは、受容するために拒絶した考え方のほうが、人間の本能に根ざしているものに親和性が高い場合である。
障碍者は存在しないほうが良い。本能的・直感的には、こちらのほうが共感性は高いだろう。であるからこそ、彼らに対して「是正」や「緩和」を施すのだ。これは、障碍者の側にもその意志が一定量あることからも同意されえよう。「全員が治療できるならば、それに越したことはない」のだ。

深く考えない我々大衆はそこで思考を止める。「では、治癒できない者はどうすればよいのか?」と問われると口をつぐまざるを得ない。自分が彼らを抱え込むのだけはご免蒙りたい。では誰が面倒を見るのか。

文明社会は、彼らに「生来的生存権」が存在し、それを国家が(税によって)保障する、ということにした。
生来的生存権というような概念は、人造の欺瞞的創造物である。環境に適応できない存在は淘汰されていくという自然状態に対する、人智の抵抗だ。

デフォルト値で淘汰圧にさらされる存在を守る訳であるから、だらだらとコストが流れ続ける。この在りように対して疑義を呈することは、知的に健康である。そこから先は「判断」なのだ。やはりコストを飲んででも「受容」(=拒絶主義の拒絶)を続けるか否か。この判断は常に問われる。決着などしない。

疑義が呈し続けられ、判断を強いられ続ける、ということが、実は受容主義の最大のコストといえるのかもしれない。