無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

「支持政党なし」のシステムは、人類の政治制度史のパンドラの箱を開くか

 

別ブログで「支持政党なし」のシステムについての問題点を指摘してみましたが、彼ら自体の胡散臭さ、ゲス臭などを差し置いて、そのシステムの意義について軽く考えてみます。

上掲記事が技術レイヤーの話とすれば、本記事は理念レイヤーの話に該当します。
制度レイヤーについて、↓のような記事も、
状況レイヤーの話について、↓のような記事も
見つけましたので、合わせて読まれてはいかがでしょうか。
人的レイヤーの所感については、ざっくりと↓に書きました。
 

▼民主制「直間比率」の調節装置として

 
政策を持たず、議決ごとに「有権者」(定義についての問題点は前傾記事もご参照ください)の配分を直接的に反映させる装置としての議員を議会に送り込むということは、議決権ベースで専業国会議員に委任される比率と、有権者の直接投票で判断される比率の配分をも、選挙で決定することになります。
「直接議決」と「間接議決」の比率というわけですから、この配分は、言わば「民主制の直間比率」とも呼びうる指標になります。
 
インターネットの普及によって、直接民主制が現実的でないとされてきた理由であるところの地理的制約がなくなりつつあります。
本当は民意の反映には直接投票が良いのだけれども、「しょうがなく」議員に代弁してもらうという仕組みになっている、という建前が通用しづらくなった、ということです。
 
大衆による直接議決を「本来の民主主義・民主政」と捕らえ、かりそめの「間接民主制」を脱して、本来の「直接民主制」に至る道のりがあるとすれば、「支持政党なし」システムの意義は、この変革を緩やかに進めるための装置となりえる、という点にあります。直間比率を徐々に高める(民主政の直接性を高める)ために、徐々にその議席を増やしていけば良いのです。
 
 

▼意外な形で問われ始めた「間接民主制」の信任

 
裏を返すと、「支持政党なし」への投票は、既存の「間接民主制」に対する信任投票である、という側面を持ちます。
 
「支持政党なし」に票を投ずるということは、彼らが主張する、「支持政党がないこと」の意思表示というだけでは済みません。
「議会制間接民主主義を肯定するか否か」という判断が、自動的にそこに織り込まれてしまうことに注意しなければならないのです。
 
「詳しい政策議論は委任すべき(したい)が、現状では支持できる政党がない」と考えているのならば、「支持政党なし」に投票することは不適切です。
 
各議案に対する議論に責任を持ってコミットしていく、という覚悟が裏になければなりません。
もしくは、誰も責任を取らない、ふんわりとした根拠のない「世論」という得体の知れない(奇しくもイギリスのEU離脱国民投票がそれを裏付けてしまいました)モノに国政を委ねる、という覚悟を持たねばならないのです。
後者(得体の知れない「世論」という怪物に国政を委ねること)は、本質的にビッグデータ解析による統治と変わるところがないようにも思えます。
つまり、AIによる統治と何が違うのか?という議論をしなければならない可能性があるんじゃないでしょうかね、ということです。
 
 
▼当の本人たちも理解していないか、無視している根本的に矛盾する視座
 
間接民主制への信任投票であるという本質を、「支持政党なし」の候補者たちは一切口にしません。
それは、政治哲学の議論を避けているからか、本人たちがバカすぎて気づいていないだけなのか。
 
大衆の支持を受けるために、この側面を意図して隠蔽しているとするならば、それは大衆の知性を信頼していないことにほかならず、目指すべき直接民主制が、実は危険極まりないものであるという根本矛盾をはらんでいることになります。
 
私の所感としては、本人たちがバカすぎて気づいていないんだろう、という気はしています。
自分たちのその行動にどういう意味があるのかを俯瞰して観る・考えるという視点や、人類が民主主義というシステムに至った経緯に対する思慮を欠いている、という意味です。
 
とはいえ、ニーズがある、システムを思いついた、というだけで見切り発車できる行動力には素直に尊敬の念を禁じえません。
しかし、やはりその動機には、私利私欲以上のものが感じられず、社会的・歴史的意義に思いを馳せるような視座を持っているとは思えないという意味で、彼らは馬鹿であると断ぜざるを得ないと思っています。
 
10年前、私がこのアイディアを思いついたとき、市民一人ひとりが、政策議論に責任を持ってコミットする覚悟を持って、直接議決に参画する社会であってほしいという思いがありました。
しかし今では、その展望には悲観しています。自己を省みてもこれほど大衆的であるのに、どうして社会の構成員全員にそれを求めることができましょう。
 
 

▼人類史上の未解決問題を掘り起こしている

直接民主制こそが理想である。が、それが不可能なので、政治家に信託して民意を代理執行させるしかない。」という前提が崩れたとき、直接民主制によって、大衆の大衆性をダイレクトに政治に反映させて良いのか、という議論は、人類史上、一定の結論を得ていない議論なのではないでしょうか。
インターネットが存在しなかった当時、実現不可能であった「近代国家における直接民主政」について論じることは別の意味で「バカ」であったことでしょう(ここでの「バカ」は、「軍隊をなくせば戦争はなくなる」という主張と同じニュアンスの「バカ」です)。
しかし、時代が下り、民主政がイコール議会制間接民主制を意味するようになってからは、「民主制」の在り方について根本的に論考するという視座をもって議論するという在り方は失われてしまいました。議会制間接民主制が生まれた当時でこそ、荒唐無稽で論考に値しなかった、この種の議論が、テクノロジーの進歩によって、今求められるようになった、と言えます。
問題は、かかる本質にあまりに誰もが気付いていないという点です。
 
机上のお勉強知識として、民主政における「衆愚政」へのリスクについて、知るには知っている。しかし、現実論という範疇において、まともに議論されてこなかった議題でもあります。
「支持政党なし」が議席の多くを占めてしまったとき、その社会は「衆愚政」に陥ってはいないでしょうか?
彼らが議席を得てしまいそうなこの状況に至っては、そのあたりの議論の必要性は、急速に高まっていると感じられてなりません。
 
民主主義の危険性、自由からの逃走、といった問題のある民主主義体制を護るため、矛盾を矛盾によって解決させようという試みのひとつが「戦う民主主義」です。詳細の説明は省きますので、ご興味の向きはググるなりなんなりしていただければ、と。
 
 
政治系学科を専攻している学生さん、どうですか、卒論のテーマで扱って見てもらえませんかね。
アカデミックな世界での民主制の直接性についての議論をまとめてみませんか。
ちょっと面白いテーマだと思うんですよね。