読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

民主主義は戦争を希求する (宗教的狂信性によって、民主主義と平和主義を唱える方に論破していただきたい議論)

▼ 「平和」、「秩序」というものの正体

「秩序」が、社会の構成員の身体・生命・財産が制度的に保全される状態と定義する場合において、とある社会で平和状態が持続するとどうなるか。
起こることは富の集積化であり、権益の既得化・保全化の進展である。人間は、「努力」によって他者との比較優位を目指し、「秩序」にその保全を求める。これは継時的に、世代を超越して進展する。比較優位にあるものは、遺伝的・環境的条件から、世代を通じてこれを進展させ、固定化を試みる。所謂、「格差社会」である。

前近代においては、社会の舵取りは、持てる優位性に基づき、特権的階級にある者たちの専権事項であった。社会指導の根拠は、(富や人的文脈における)優位性である。
かかる状況においては、比較劣位にある者が「平和的に」これを覆すことは不可能である。平和、すなわち秩序が、比較劣位にある者がこれを覆すことができない状態を指すのであるから、論理矛盾を起こしている訳ですらなく、定義がそれを禁じているとさえ言えそうである(※実際には論理矛盾であり、その他の前提をここで明示していないのでその論理矛盾を証明すらできていないことに注意)。


# 話は逸れるが、「家族を敬う」「家を大事にする」という価値感は、この優位性の継承に由来する。優位にある状況の根拠が出自に多くを依っているのであるから、その出自を大切にするのは当然と言える。これが道徳観・倫理観というレベルに演繹され、信仰じみたものにされると、「持たざる」階層の人間をその階層のまま固定化させる働きを持つことになる。「持たざる」階層の者がダメな親に足を引っ張られるように仕向け、ダメな親を切って階層に逆らおうとすることを倫理的に抑制し、そうしたものを差別する手段とした。

 


▼ 「民主主義」とは根源的に秩序破壊の思想である

さて、近代以降において「民主主義」が現出・発展した。資本の集積やテクノロジーと言った分野では、洋の東西の間で類似の発展を遂げたものが少なくない。しかし、こと政治体制という分野では、西欧のみで「民主主義」が奇形的発展を遂げた。

地政学的な類似性を超えた奇形的な発展であることを考えれば、キリスト教における倫理感・道徳理論の進展の奇形性がその要因(の少なくとも一つ)にあると思えてならないが、これも余談である。

古代の民主主義は、「民」たる自由市民と、市民権を持たざる「奴隷」(的身分)とを、根源的に断絶させるシステムであった。だが、近代民主主義は比較劣位にある階層に、政治的意思決定権(の一部)を与える思想である。比較劣位にある者は、当然に比較優位に立つことを望むが故に、比較優位にある者に比肩する階層に至る手段を望む。「比較」優位に至り得る手段の保証を民主主義が求めたとき、既に比較優位にある者にできることは対外戦しかありえない。社会内で彼らの機会を保証するということは、すなわち自分たちの比較優位性への保証を手放すことに他ならないからである。これは、既存秩序に対する挑戦であり、平和への挑戦であり、したがって危険思想である。
「世界民主主義」が成立しえない理由はここにある。全世界をひとつの社会と捕えてしまうと、外部が存在しなくなってしまうからだ。宇宙からの侵略者が現れて初めて、世界民主主義が成立するのだ。

 

▼ 西欧の特殊環境が民主主義を成立可能にした

さて、そのような危険思想たる民主主義が定着しえたのはなぜだろうか。
一つは、対外戦によって国内の比較劣位の者にその地位を脱する機会が与えられたからであり、それが可能な国際情勢であったからだ。
二つ目は、物理的強制力(=武力)の源泉が(若年男子の)「頭数」に依存するというテクノロジーと資本集積の段階にあったという状況であろう。

資本集積とそれに続く産業革命によって、「銃砲とその発射制御装置としての人間」が最大効率を産む物理的強制力であった時代に民主主義が進展している。
物理的強制力のために頭数が必要であったがために、意思を持つ彼らに「部分的に」その意思決定権を分与した(選挙権が長らく男子に限定されていたことも頷けよう)。
それ以前においても、物理的強制力の源泉は頭数であったに違いないが、富の格差が個人の戦闘能力(武装)に決定的な格差をももたらしていたがために、比較劣位にある者にその意思決定権を分与する必要はなかった。槍一本の足軽がフル武装の騎馬武者(や騎士)に太刀打ちすることに比べ、小銃を手にした兵が士官に反旗を翻すことの容易さは冷静に考えれば想像に難くなかろう。
「国への忠誠」「軍上官への絶対服従」が兵たちの基本価値観になっていたことも傍証である。そのように洗脳・宗教化しなければ物理的強制力たる「軍」が成立しないからだ。
近世日本は銃器を捨てた。
「外部」をなくした日本には、銃器は危険すぎたのだ。隣接する「外部」に恵まれていたならば、日本は対外戦を戦うために銃器を捨てなかっただろう。ほぼ唯一の侵攻可能たる外部であった朝鮮への出兵が社会に利益をもたらさないことを悟った徳川幕府は、意識してかせずかはともかく、銃器を捨てた。でなければ秩序を保ちえないからだ。

 


▼ 今なお民主主義制が持続しえているように見えるのは何故か

やがて、時代は進み、物理的強制力は再び「富」優位の時代に移った。20世紀の両世界大戦はそれを全世界に決定的に印象付けた。
だが、今なお、少なくとも建前上は民主主義を指向する体制の国家しか、ほぼ存在しない。これはいったいどういうことか。


・民主主義の宗教化

民主主義を否定する言説は、非倫理的であるという色彩を帯びて非難される。この現状を想起されたい。ここまで徹底的に宗教化されてしまえば、なかなか否定のしようがないではないか。

・富と武力の分断

現状においては、富と武力が分断されるにいたった。また、武力はその行使不可能性によって(核兵器を使えるわけがない)、富と結びつかなくなった。

・民主主義のふりをした共和制に過ぎない現状を、民主主義と思い込んでいる

間接民主主義と言う言葉の錯覚により、我々は民主主義していると思い込んでいるわけだが、実際に選挙に立ち、当選するのは特定の「持てる」階層の人間たちである。これは事実上の共和制だ。建て付け上、これを読んでいるあなたやこれを書いている私にもその機会がないわけではない。しかし、現実問題としては不可能だ。彼らはそのための訓練を、幼いころから積んでいるのであり、それは比較劣位にある我々には決して解放されない。

 


▼ 民主主義と世界平和が両立する条件を考えてみる

・世界平和のためには、抜け駆けの絶対禁止が必要

人間は「他者との比較」において幸福感を得る。劣等感や嫉妬心は「不幸」だ。しかし、「比較優位」への欲求を否定しなければ、民主的平和主義は実現しえないのだ。これは資本主義と根本から矛盾する。だから共産主義が生まれた。
だが、「比較優位」を禁ずるとして、それを実効あるものたらしむためには、それを管理する者が必要である。人間は根源的に比較優位を得たい生き物だからだ。
しかし、比較優位禁止のための管理者も人間たらざるを得なかったのが、これまでのテクノロジーの限界であった。共産主義の失敗はそこにある。管理者と被管理者の格差だ。ここには比較優位性・劣位性の格差が確かに存在する。


・機械による人間の支配

つまり他者に対する比較優位性を否定するためには、「人が人を裁く」ことがあってはならない訳で、であるならば比較優位を生じせしめる政治的意思決定プロセスを封じる絶対権力が必要になる。

そうなるともう、実行力ある神による支配しかない。しかし実際には、実行力を持つ神など存在しないのであるから、それに等しい装置をつくるしかない。

人格を持ち、生物学的には我々と同種の、ある特定人間を「人」ではなく「神」と規定することに依れば(すなわち定義を捻じ曲げれば)、あるいは可能かもしれない。しかし、それは「独裁制」「君主制」「専制」と何が違うのか。

民主主義が平和主義と並立しうるとすれば、民主主義による意思決定が抜け駆け禁止規定に抵触した場合の処罰権(これには許容されうる唯一の武力行使が含まれる)を行使する、人ならぬ装置が必要になる。機械による人類の支配と捉えることができる社会だ。
しかし、そうである時、民主主義による意思決定に、いったい何の価値があるのか。

 


▼ 差別と戦争 または 「愛とは何か」

さて、ここまでにおいて、「人間は比較優位に立つことを希求する生き物である」という前提に立って、民主主義と平和主義の両立不可能性を論じてきた。

では、「人間の比較優位性希求本能」の除去の可能性について論じなければなるまい。でなければ、「人間から比較優位希求本能」を除去すれば、民主主義と平和主義が両立可能である、と言うことになるからだ。

しかし、本稿も長くなりすぎた。
それについての論考は、またの機会(もしあれば、だが)に譲ることにしたい。

エッセンスだけ抽出すると下記のようになろうか。

比較優位性希求本能とは「差別」への欲求の事である
比較優位性気球本能の除去は、「差別」の廃絶を意味する
・しかし、一方で「愛への希求」もまた、比較優位性気球本能である
・我々の社会は、「愛」の否定を受け入れることが可能か
民主主義の宗教性と同等、あるいはそれ以上に「愛」の宗教性は強固ではないだろうか

・「努力」とは比較優位を得るための手段であり、比較優位を得ることに寄与しない行動は「努力」とは呼ばれない
・「努力」の否定は、当面不可能である
(「努力」を否定する社会は、現時点において存続不可能である)
・「努力」を否定しうる段階にまでテクノロジーが達した場合、我々は「努力」の有意義性を捨てることができるだろうか