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無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

屁理屈をつけて他人の行動を制限しようとする人の言うことは聞きません

もはや宗教論争の様相を呈してきた感のある喫煙者vs嫌煙者(≠非喫煙者)。

 
何度か言及していたような気もしますが、ちょっと古い記事ですが、気になる記事を見かけたので、またつい口を出してしまおうかと。
 
 
 
 
 
さてさて。
まず一つ目には、「禁煙運動」はナチズムに近しい活動である、という視点は持っておいたほうがいいということ。
うっすらとした世論の支持を背景に、特定の行動・人種を執拗に排撃する姿はまさしくナチズムです。
ちなみに禁煙運動は、ナチスも展開した活動です。
 
うっすらとした世論を背景に、「正義」の名の下に(今の嫌煙家が「正義」というワードを使うのは見たことがないですが、振りかざしているものにあえて名前をつけるとしたら、やはり「正義」なんじゃないかと。彼らの怒りは、やっぱり義憤じみた心境なんだと思います。)、少数派を糾弾するあり方は、まさにファッショ的であります。
 
実害を蒙ったことに抗議することと、難癖をつけて排撃することは異なります。
喫煙問題の場合、その境界にあいまいなものを含んでいることが問題を難しくしています。
 
性的マイノリティーに対するあり方の、喫煙問題と似て非なる部分が、この「実害性」にあります。
性的マイノリティーの人たちが彼ららしく振舞うことには、(今のところ)実害がありません。
したがって、彼らへの排撃はほとんどすべてを「差別」と括ってしまって問題がないのでしょう。
 
しかし、喫煙問題に関しては確認されている限定的な「実害」を根拠に、立証されていない「害の可能性」を持ち出して、「有害である」という排撃がなされます。すでに隔離されているにもかかわらず、です。
隔離の上、絶滅させるという手法は、ホロコーストを髣髴とさせるものがあります。
 
 
二つ目には、嫌煙者の論法が極めてレベルが低いということ。
嫌煙者は、「健康に害がある」をすべての根拠として喫煙者を攻撃します。
服についたタバコの匂いの有害性は立証されていません。
にもかかわらず、タバコの匂いが有害であるという不確かな根拠を元に、喫煙者を排撃します。
 
これが、交渉において、いかに稚拙な組み立てであるか。
「私はその匂いが嫌いなので、離れてもらえないだろうか」と語り掛けられれば、あなたに配慮してその場から立ち去ることもありえましょう。根拠がタバコの匂いが嫌いな人の内部の問題なので、議論は当人同士の関係性に依存することになります。語り掛け方が無礼であればカチンときて「うるせえだまれ」と言われてしまうかもしれませんし、丁寧に相談する形であれば「こちらこそ配慮が足りなかった」と飲み込めることもあるでしょう。
しかし、「タバコの匂いは有害なので立ち去れ」と語り掛けられればどうでしょうか。その要請には根拠がありません。事実でないことを理由に行動を制限される訳ですから、「こいつアホか」となる訳です。
 
ありもしない理論を根拠にするのではなく、実際に存在する個人の感情を根拠に「交渉する」方が、事実関係の正確性ではなく、人間関係の世界での戦いになるので、よほど勝ち目のある議論だったりするんですよね。
ことに、みんなが「臭い」と思っているという環境があるわけなので、人間関係での議論で情に訴えたほうが、相手も受け入れやすいのではないでしょうか。
 
 
このへんの議論の最たる例は児童ポルノ関連の話なんですがね。
「見てると不愉快だ」「俺は嫌いだ」なので、俺の目に触れないところに隔離してくれ、というのは話が通りやすいのですが、「性犯罪を誘発する」ので根絶してくれ、という話になると、エビデンスを出せよバカ、という話になる訳です。
 
 
 
 
また、先日の人口肛門の話もまさに好例です。
 
 
 
衛生上問題がある、といって抗議するのは、論点のすり替えな訳ですね。
私が気持ち悪いからやめてほしい、という抗議が素直でよろしい。
 
素直な気持ちの善良な発露であれば、共感は得やすいわけで、そこをスタートにしなければ、まともな議論などできないんじゃないでしょうか。