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無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

思考→運命 の格言の意味

[http://bylines.news.yahoo.co.jp/toyoomiya/20160303-00055003/ 

 
ちょっと古いですが、育休(とか有給とか)取得に申し訳なさを感じるべきか、という問題。

 ▼ 「和を以って尊しとなす」「相手の身になって考える」
 
経営陣だって人間です。
給料払ってるんだから、なるべくたくさん働いて欲しいですよ。そりゃ。
サボられすぎて会社を潰しちゃったら、それこそ関係者全員が不幸です。
経営陣はその責任を負っているわけです。
想定以上の成果を上げてくれる社員、無駄なコストを削減してくれる社員は、そりゃありがたいに決まっている。
 
相手の顔を意識しなくなり、集団として、機関として彼らを認識するとき、人は相手への洞察をやめます。
相手の顔を意識すれば、「なるべく相手の期待に応えたい」「意に沿うことをしたい」と思うのが、「善い」人なのだろうと思います。
職場をそういった「善意」で覆いたいのか、「人の事はどうでも良いので、自分の利益・願望を最優先する」という「利己性」で覆いたいのか、「困らせてやりたい」という悪意で覆いたいのか。
 
 
▼ 「善意」の応酬は「得」である
 
私自身、嫉妬心が強く、怠惰で、利己的であります。
心から「相手の期待に応えたい」とはあまり思っていません。
 
ですが、このような「善意」で構成される「場」にいることは、そこにいる人たちみんなにメリットがあることだとは考えています。
 
経営陣だって、社員の給料を払わなければならないというプレッシャー・危機感を常に背負っているわけですよ。
そこに甘えて平気な顔をする社員に対してムカつかない訳はありません。ムカつかれたら、そこに「悪意」の種が生まれます。
ムカついてもそれを許せるのは、親の愛以外にほとんど存在しないと思うのですがどうでしょうか。
 
「悪意」って恐ろしいですよ。
平気で論理性もその人の哲学も捻じ曲げて、対象に対する嫌がらせのための論理と哲学を無意識で構築させてしまうんですから。
「悪意」(もう少し柔らかく言えば「怒り」)に基づいた判断・行動を、論理性や哲学、果ては「善意」に基づいて行っているかのように思い込み、かつ平然と言ってのけれるのが人間なのです。
 
 
▼ 育休取得に際して申し訳なさを「感じない」ことと「表明しない」ことは次元が異なる
 
当然の権利として育休を取得するという行動に出ることは、その損得についてちゃんと考えられているのならば、別にアリだと思います。
ですが、法で保障された権利を行使するのは当然である、という態度を表明することは、損だと思います。
ほとんどの場合、それは場の空気を悪くします。
なので、「申し訳なさそうな態度」を取れない(少なくとも言葉で表明すらできない)人は、単純にバカだと思います。
 
善悪や正誤という基準で考えるよりも、損得で考えた方が「善く」、「正しい」状況を生み出しやすい……もう少し詳しく言えば、「嘘をつかない」ことを、善悪の問題と捉えると良い結果を生まず、損得の問題と捉えると良い結果に繋がりやすい……のではないでしょうか。
 
 
▼ 「いかなるウソもついてはならない教」からの目覚め
 
子供や若者向けのコンテンツでしばしば語られるセリフに「自分の気持ちにウソをついてはダメだ」というフレーズがあります。
これ、社会に垂れ流されている言説の中でも、かなりタチが悪いように思います。
 
理性で自分にウソをつき、感情を矯正する方が、よほど幸せに近づけると思うのです。
そもそも、人は「自分の気持ち」を理解してない場合がほとんどです。
 
「思考」から「運命」の格言がありますが、
これは、感情のままに思考するのではなく、思考で感情を制御しなさい、という教えなんじゃないかなと思うわけです。