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無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

差別をなくすためにしなければならないこと

自然な状態では、人間は「差別する」動物です。
他者に対する「比較優位」を得ることに、快楽・安堵を得る生き物です。
自覚の有無を問わず。

「差別」という心理的動きを、行動レイヤーに影響させないようにすることが「人権の擁護」への第一歩です。
「人権擁護」という動きに対して、多くの人間が積極的になれないのは、心理的に不自然な言動を強制されるからです。他者の行動を制限するのは、よほどインセンティブをうまく設計せねばなりません。
「人権侵害」的な言動を抑制することが、何らかの個人的メリットになるような制度設計が必要です。しかし、我が社会には、もうそれだけの余裕はないでしょう。
しかし、逆に「教育」というレイヤーでの洗脳を徹底することによって、ある程度これは達成されているとも思えます。幼いころにしでかした、ある種の人権侵害的言動を思い出しては懊悩する、みたいな経験を持っている大人たちも多いのではないでしょうか。
善悪の価値感などと言うものは所詮、相対的な物に過ぎませんが、多くの人の行動を縛るためには、「絶対的善悪」のフィクションを信じ込ませることは、有効な手段と言えます。



歴史的な価値観の変化は、教育によって世代的にもたらされてきました。
人間の本質的価値観はなかなか変わりません。「三つ子の魂百まで」とは良く言ったものです。自分が幼少の頃に習得した価値観を覆すことは非常に難しい。
新しい社会が自分の価値観を否定したとき、老人たちは沈黙するしかありません。



少し話が反れました。
教育による価値観矯正は、社会を変えてくるのに役立ってきました。
しかし、ある種、洗脳とも言えるこの手法は、人々から自分の本質を見つめ直す動機をも奪います。
「差別は悪である」と刷り込まれる事によって、表層的な差別の形態のみに目が行き、差別が人間のいかなる本質から発するものなのかへの思料に行き届かなくさせてはいないでしょうか。
事象への反駁が、本質的考察に対する怠惰への自覚を阻害し、それにとらわれ、本来の心情的目的を見失わしめていないか。

差別問題に取り組む人たちに、強く問いかけたい気持ちでいます。

差別は酷いことである。差別はなくさねばならない。
一人一人が、なぜそう感じるのかを、自分を見つめ直すことを通じて、その残虐性を自覚していくことこそが、地道ながらも着実な方法論だと思うのです。