無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

「愛」とは何か。



自分の相手への好意(男女間であれば愛と言いうる)を確信していたとしても、相手の自分への好意に疑念があれば、これを失うまいと自分の行動が抑制されてしまう。

相手が自分をいかに裏切ろうとも、自分の相手への好意が揺るがないと確信している場合、これは社会的、あるいは客観的には不幸だ。時に、人はそれを「恋の奴隷」と言う。相手の自分への好意を失わしめかねない行動を一方的に制約されているからだ。
この制約は相手の自分への好意への疑念に由来する。

相手の自分への好意を確信できるという伴侶との出会いはあまりにも幸運である。

逆に、相手から自分への好意を確信していながら、自分から相手への好意に疑念を抱いている場合、人は残虐になれる。

 

 



愛とは自己洗脳である。自分の相手への好意に対する確信を愛と呼ぶのだ。
結婚にまつわる法体系は、「相手の自分への好意への確信」に対する疑念を法的に拘束していると言える。

自分の相手への好意に対する確信は、自己洗脳である。
性欲はこれを大いに補強する。少なくとも男の場合、性欲こそが他の要素を凌駕する(女の場合は知らない)。

俺は、この自己洗脳に値する客体を見出すことができるのか。
性欲補正をもってしても、難しいのではないかと、最近とても危惧している。

相手の自分に対する好意への確信とは何か。
共感性である。(相手が充分に馬鹿であると確信できる場合、金でそれを買えるだろうと推測しうるが。)

「価値観の一致」とはまさにこのことである。

これには、自分の価値観を構成する知識と知性の同期が必要であろう。

自分とと同程度の知識と知性がなければ、自分の価値観を理解し、共感されていると確信できるはずがないのだ。自分を超えていても、自分に不足していてもダメだ。


現代人は、無意識のうちにこの本質を悟っているに違いない。
そして、そういう伴侶を見出すことがほぼ不可能であるということに薄々勘づいている。

その不安感に正直であるか、社会が構成した建前としての結婚観を飲み込むか。
後者の圧力が(宗教的な低圧力もあって)低い現代日本(あるいは中国や韓国)において、結婚することができるのは、社会が強要する結婚観に従順であることが得であると思えるか、性欲に突き動かされるかの場合に限定されてしまっているのではないだろうか。