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無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

シリアの現状を直視するということ 【憲法9条の鎖国】

後藤さんは日本と世界に何を伝えたか 「正しい日本の姿」とは
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20150202-00042728/


我々は、憲法9条に守られています。
憲法9条があるから戦争に巻き込まれないで済んでいる、とは断じて言いません。
我々が戦争に巻き込まれていないのは、日米安保があるからです。

憲法9条は我々を世界の紛争を直視することから守ってくれているのです。

悲惨な戦争が世界各地で起こっている。しかし、我々は憲法9条があるから何もすることができない。

このことが、我々日本人の目をシリアから背けさせてはいないでしょうか。



後藤さんが命を懸けて伝えたかったことは、確かに悲惨な状況にある人たちの現状でしょう。
しかし、それに心を痛めた我々にできることはなんでしょうか。
それが、政府の進める中東への人道支援であり、ISISと戦う姿勢の表明であり、有志連合との連帯なのです。余りにも間接的であるし、「結局は金か」という議論も出てきましょう。しかし、それ以上にやれることがないのです。9条があるので。

憲法9条がなければ、我々にはもっとやれることがあるでしょうし、世界から求められはしないでしょうか。
シリアの現実を直視し、悲惨な現実があることを知った我々が何かの役に立ちたいと思った場合、最大の障害が平和憲法なのです。

震災ボランティアに手ぶらで行くのと同じく、自衛の手段なしに紛争地に赴くことは、迷惑でしかありません。
「自分の食糧・寝床を確保できる人のみ、ボランティアに行きましょう」ということと、「自分の身の安全を守れる国にのみ、紛争解決能力がある」ということは、本質的に同義です。

自分の身を守ることすら禁じている憲法をいただく我々に、汗をかいて貢献するという選択肢はありません。
(※さすがに、自分の国土を守ることを禁じられてしまっては滅亡待ったなしなので、「自衛権」という概念を持ち出して、憲法を曲解して武装している。それが自衛隊です。)


護憲派」の人たちの主張はこういうことなのです。

「私たちは戦争に反対です。戦争に巻き込まれることに反対です。日本以外における戦争・紛争に関しては、私たちは何もしません。やれてお金を払うことまでしかできません。汗をかく協力はできません。できるように変えることもしません。」



憲法9条は、我々の精神性を内向きにしています。
憲法9条が謳う不戦の誓いは、国内的にはとても心地の良い風土を作り上げました。
武力の行使を極端に忌避する、法と言論が支配する平和を、我々は謳歌しているのです。
一方でこれは、法も言論も役に立たないような、ISISのような「現実」から隔離された社会であると言えます。

「お客様」としての外国人を「おもてなし」する気はあっても、「難民」や「移民」を「隣人」として迎え入れる器は、今の日本にはありません。彼らは少なからず「現実」をまとってやってくるからです。

この「鎖国メンタリティ」は、9条のみによって守られているわけではありません。国の各種政策による部分も大きかろうと思います。
しかし、概念的にはこの9条こそがこの国の鎖国性を象徴しているように思えてなりません。