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無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

脱労働化社会とベーカム

人工知能であるとか、ロボットであるとか、テクノロジーの世界は日々進歩を遂げています。

先人たちは、ロボットが一般化し、人間が労働から解放された世界を想像しました。それを前提に、高度な知能を持ったロボットと人間の葛藤をテーマに様々な物語が生まれています。

しかし、このような社会は、はたして実現するのでしょうか。
また、実現するとして、それはどのような経過を辿って実現されるのでしょうか。

大多数の人が労働せずに暮らす社会を「脱労働社会」と呼ぶことにしましょう。
また、これに向かいつつある社会は「脱労働化社会」とでも呼べるでしょうか。


テクノロジーの進歩が、人間の労働力当たりの生産性を増大させ続けている現代社会は、まさしく脱労働化社会であると言えます。

既に、それまで人力で行なっていた労働が消滅した例は、枚挙にいとまがありません。

http://labaq.com/archives/51820421.html

また、主にIT技術界隈でしばしば語られる、今後消滅するであろう職業もまた、枚挙にいとまがありません。

http://blog.livedoor.jp/itsoku/archives/36810169.html


テクノロジーの進歩によって、人間の手を離れた仕事が、結構なハイペースで消滅しつつあるのに、人間は未だ労働から解放されていません。むしろ、 「簡単なお仕事」が消滅した結果、生きる糧を得るに足る仕事に求められるハードルが高くなりつつあります。

人間の労働が求められる産業領域が次々と削り取られていく中で、我々は労働の対価として日々の糧を得るという在り方に依存しない社会を実現できていません。

 現実に仕事は人間の手を離れ始めています。

テクノロジーによって人間の仕事が新しく生み出されるペースもまたその歩を速めているようにも思えますが、人間の仕事が失われるペースがそれ以上 に加速しているように感じられるのです。

百歩譲って、仮にこのペースがバランスしているとしましょう。
しかし、「人間の仕事」の変化は、消える職業についていた人が、生まれた仕事をこなせるというものではありません。多くの場合、新たに生まれた仕事は、高度な知識や経験が求められるのに対して、失われる仕事は、代替可能性の高い「単純労働」とも言える領域なのです。仕事を失った人が、新し く生まれた仕事に就くことができるかと言えば、極めて難しいと言わざるを得ない。

自らの仕事が「消滅」してしまった人が、再び仕事を得、それにより糧を得られるようにしようという努力は、わが国でも一部制度化されています。

http://www.mhlw.go.jp/bunya/koyou/safety_net/a3.html

しかし、人間の労働力に対する需要が縮小する中では、職業訓練は本質的な解決になっていないのです。
脱労働化社会・脱労働社会の本質は、「働かないで喰ってる人々が増大していく」ということなのですから。

脱労働社会が文明の必然であるとすれば、そこに適合する社会の在り方が求められることになります。

したがって、「雇用の確保」であるとか、「ワークシェアリング」という考え方は無意味であると言わざるを得ません。
雇用を確保しようとすると、その人件費が物価に転嫁されます。そうして物価は高止まりし、外部経済圏との価格競争に敗れていくのです。
ワークシェアリングという考え方も現状ではうまく機能するとは思えません。ブラック企業で長時間労働を行ってやっと日々の生活を得ているというのに、この労働を他者に分け与えるなど。共倒れしか先に見えません。


ベーシックインカムという考え方(以下、面倒なのでベーカムと略します)は、高度に脱労働化された社会の在り方に、一定の実現性を与えうる考え方 です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A0


しかし、我々の社会は、即座にこの考え方を受け入れることができないでしょう。
他者にタカる人を我々は激しく侮蔑します。お隣の国の謝罪要求がタカりとしか思えないからこそ(一部ではすでに日本に勝ったなどと嘯きながら)、嫌韓ムーブメントがあるのでしょう。これは日本に限ったことではありますまい。

脱労働化社会とはいえ、人間の仕事を完全にゼロにすることは不可能でしょう。
そして、仕事してベーカム+αの収入で生きる人がベーカムのみで生き る人に対してこの種の侮蔑を飲み込みうるレベルの格差がはたして作れるのか。
ベーカム生活者には、みじめな思いをして生きていてもらわないと、労働生活者はアホらしくて仕事なんかしてられないのです。

ベーカム思想に基づく脱労働化社会というのは、差別を明確に認めなければ成立しえないような気がしています。


余談ですが、学生時代に友人とこのテーマで議論したときは、「一億総コミケ社会」とか、「一億総学生社会」と言ったキーワードで話を進めたものです。 練り上げられた議論でもなく、説得力を持つ話でもないので、内容に関しては割愛しますが。




さて。ロボットを生産設備として考えるとどうなるでしょうか。
急に、マルクスという名前が脳裏をよぎってしまいます。マルクスは生産設備を国有化して、生産の果実を全体で分かち合う、という社会を提唱しました。人民はみな平等である、というタテマエですね。しかし、そのタテマエは、現在では実現性のないものと見なされます。
つまり、仕事のできないドンくさいヤツと俺が、なぜ同じ給料なんだ、なぜこれしか給料が違わないのか、という不満です。換言すればやはり、働くな んてアホらしい、というところに行きついてしまいます。これが、社会の成長力を奪ってしまった。



さて、このように考えてくると、脱労働化時代の社会とは、労働から疎外された被差別階級と産業を担う支配階級とが階層化された階級社会が想起されてきます。民主主義という政体の元では、階級社会化というレジュームチェンジはなかなか起こらないのではないかとも思われますが、果たしてどうなりますか。


何が言いたいかというと、俺はそこそこ頭が良いから、辛うじて食えてるけど、そこらにいるバカは、将来どうするんだろうね、みたいな。
まぁ、俺も明日はどうなってるかわかりませんが。


結論は出ないまま、話は続く。続かないかもしれない。