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無能が恥でなくなった時代に生きる

ネットを通じてリテラシーが上がってきたためか、無能はやっぱり恥だよねという空気がジワリと出てきた気がするので、「バカについて考える」に再改題しようかな、とか考えています。

受容的な理念が支払い続けなければならないコスト


受容的理念は、その理念そのものの否定をも受容しなければ、理念が掲げる本質的受容性を全うすることができない(本質的矛盾から自由でいられない)。
これは、その理念による支配の継続性にとってきわめて大きいリスクである。

そのため受容的理念は、多くの場合において、理念そのものに対する否定だけは拒絶する、という運用がなされる(例:「戦う民主主義」)。この際、受容主義じたいのベネフィットを重く見て、原理的受容主義の本質的な矛盾には目を瞑ることになる。



障碍者は要らない」に対して、「『障碍者は要らない』とする者は要らない」というレトリックが持ち出されたわけであるが、障碍者を受容するという理念を守るためには、「障害者は要らない」という考えは拒絶するしかなく、拒絶された側はこれに被差別性を感じるしかない。

往々にして問題になるのは、受容するために拒絶した考え方のほうが、人間の本能に根ざしているものに親和性が高い場合である。
障碍者は存在しないほうが良い。本能的・直感的には、こちらのほうが共感性は高いだろう。であるからこそ、彼らに対して「是正」や「緩和」を施すのだ。これは、障碍者の側にもその意志が一定量あることからも同意されえよう。「全員が治療できるならば、それに越したことはない」のだ。

深く考えない我々大衆はそこで思考を止める。「では、治癒できない者はどうすればよいのか?」と問われると口をつぐまざるを得ない。自分が彼らを抱え込むのだけはご免蒙りたい。では誰が面倒を見るのか。

文明社会は、彼らに「生来的生存権」が存在し、それを国家が(税によって)保障する、ということにした。
生来的生存権というような概念は、人造の欺瞞的創造物である。環境に適応できない存在は淘汰されていくという自然状態に対する、人智の抵抗だ。

デフォルト値で淘汰圧にさらされる存在を守る訳であるから、だらだらとコストが流れ続ける。この在りように対して疑義を呈することは、知的に健康である。そこから先は「判断」なのだ。やはりコストを飲んででも「受容」(=拒絶主義の拒絶)を続けるか否か。この判断は常に問われる。決着などしない。

疑義が呈し続けられ、判断を強いられ続ける、ということが、実は受容主義の最大のコストといえるのかもしれない。

「支持政党なし」のシステムは、人類の政治制度史のパンドラの箱を開くか

 

別ブログで「支持政党なし」のシステムについての問題点を指摘してみましたが、彼ら自体の胡散臭さ、ゲス臭などを差し置いて、そのシステムの意義について軽く考えてみます。

上掲記事が技術レイヤーの話とすれば、本記事は理念レイヤーの話に該当します。
制度レイヤーについて、↓のような記事も、
状況レイヤーの話について、↓のような記事も
見つけましたので、合わせて読まれてはいかがでしょうか。
人的レイヤーの所感については、ざっくりと↓に書きました。
 

▼民主制「直間比率」の調節装置として

 
政策を持たず、議決ごとに「有権者」(定義についての問題点は前傾記事もご参照ください)の配分を直接的に反映させる装置としての議員を議会に送り込むということは、議決権ベースで専業国会議員に委任される比率と、有権者の直接投票で判断される比率の配分をも、選挙で決定することになります。
「直接議決」と「間接議決」の比率というわけですから、この配分は、言わば「民主制の直間比率」とも呼びうる指標になります。
 
インターネットの普及によって、直接民主制が現実的でないとされてきた理由であるところの地理的制約がなくなりつつあります。
本当は民意の反映には直接投票が良いのだけれども、「しょうがなく」議員に代弁してもらうという仕組みになっている、という建前が通用しづらくなった、ということです。
 
大衆による直接議決を「本来の民主主義・民主政」と捕らえ、かりそめの「間接民主制」を脱して、本来の「直接民主制」に至る道のりがあるとすれば、「支持政党なし」システムの意義は、この変革を緩やかに進めるための装置となりえる、という点にあります。直間比率を徐々に高める(民主政の直接性を高める)ために、徐々にその議席を増やしていけば良いのです。
 
 

▼意外な形で問われ始めた「間接民主制」の信任

 
裏を返すと、「支持政党なし」への投票は、既存の「間接民主制」に対する信任投票である、という側面を持ちます。
 
「支持政党なし」に票を投ずるということは、彼らが主張する、「支持政党がないこと」の意思表示というだけでは済みません。
「議会制間接民主主義を肯定するか否か」という判断が、自動的にそこに織り込まれてしまうことに注意しなければならないのです。
 
「詳しい政策議論は委任すべき(したい)が、現状では支持できる政党がない」と考えているのならば、「支持政党なし」に投票することは不適切です。
 
各議案に対する議論に責任を持ってコミットしていく、という覚悟が裏になければなりません。
もしくは、誰も責任を取らない、ふんわりとした根拠のない「世論」という得体の知れない(奇しくもイギリスのEU離脱国民投票がそれを裏付けてしまいました)モノに国政を委ねる、という覚悟を持たねばならないのです。
後者(得体の知れない「世論」という怪物に国政を委ねること)は、本質的にビッグデータ解析による統治と変わるところがないようにも思えます。
つまり、AIによる統治と何が違うのか?という議論をしなければならない可能性があるんじゃないでしょうかね、ということです。
 
 
▼当の本人たちも理解していないか、無視している根本的に矛盾する視座
 
間接民主制への信任投票であるという本質を、「支持政党なし」の候補者たちは一切口にしません。
それは、政治哲学の議論を避けているからか、本人たちがバカすぎて気づいていないだけなのか。
 
大衆の支持を受けるために、この側面を意図して隠蔽しているとするならば、それは大衆の知性を信頼していないことにほかならず、目指すべき直接民主制が、実は危険極まりないものであるという根本矛盾をはらんでいることになります。
 
私の所感としては、本人たちがバカすぎて気づいていないんだろう、という気はしています。
自分たちのその行動にどういう意味があるのかを俯瞰して観る・考えるという視点や、人類が民主主義というシステムに至った経緯に対する思慮を欠いている、という意味です。
 
とはいえ、ニーズがある、システムを思いついた、というだけで見切り発車できる行動力には素直に尊敬の念を禁じえません。
しかし、やはりその動機には、私利私欲以上のものが感じられず、社会的・歴史的意義に思いを馳せるような視座を持っているとは思えないという意味で、彼らは馬鹿であると断ぜざるを得ないと思っています。
 
10年前、私がこのアイディアを思いついたとき、市民一人ひとりが、政策議論に責任を持ってコミットする覚悟を持って、直接議決に参画する社会であってほしいという思いがありました。
しかし今では、その展望には悲観しています。自己を省みてもこれほど大衆的であるのに、どうして社会の構成員全員にそれを求めることができましょう。
 
 

▼人類史上の未解決問題を掘り起こしている

直接民主制こそが理想である。が、それが不可能なので、政治家に信託して民意を代理執行させるしかない。」という前提が崩れたとき、直接民主制によって、大衆の大衆性をダイレクトに政治に反映させて良いのか、という議論は、人類史上、一定の結論を得ていない議論なのではないでしょうか。
インターネットが存在しなかった当時、実現不可能であった「近代国家における直接民主政」について論じることは別の意味で「バカ」であったことでしょう(ここでの「バカ」は、「軍隊をなくせば戦争はなくなる」という主張と同じニュアンスの「バカ」です)。
しかし、時代が下り、民主政がイコール議会制間接民主制を意味するようになってからは、「民主制」の在り方について根本的に論考するという視座をもって議論するという在り方は失われてしまいました。議会制間接民主制が生まれた当時でこそ、荒唐無稽で論考に値しなかった、この種の議論が、テクノロジーの進歩によって、今求められるようになった、と言えます。
問題は、かかる本質にあまりに誰もが気付いていないという点です。
 
机上のお勉強知識として、民主政における「衆愚政」へのリスクについて、知るには知っている。しかし、現実論という範疇において、まともに議論されてこなかった議題でもあります。
「支持政党なし」が議席の多くを占めてしまったとき、その社会は「衆愚政」に陥ってはいないでしょうか?
彼らが議席を得てしまいそうなこの状況に至っては、そのあたりの議論の必要性は、急速に高まっていると感じられてなりません。
 
民主主義の危険性、自由からの逃走、といった問題のある民主主義体制を護るため、矛盾を矛盾によって解決させようという試みのひとつが「戦う民主主義」です。詳細の説明は省きますので、ご興味の向きはググるなりなんなりしていただければ、と。
 
 
政治系学科を専攻している学生さん、どうですか、卒論のテーマで扱って見てもらえませんかね。
アカデミックな世界での民主制の直接性についての議論をまとめてみませんか。
ちょっと面白いテーマだと思うんですよね。
 

舛添辞任は民主主義の勝利だ【ただし良いことだとは思えない】

※「いじめる側にまわらないといじめられる」 舛添「攻撃」に識者の違和感相次ぐ

> 「セコいから辞めさせる」じゃ民主主義は成り立たない

何言ってんだこのオッサン、と思ったら理系の先生ですか。じゃあしょうがないね。

「セコいからやめさす」ことができるようにしたほうが、民衆が虐げられる確率が減るんじゃね?というのが民主主義ですよ。
民主主義ってそういう理念に立脚したシステムで、さすがにバカな大衆の一時の感情で統治をガバガバにするのはマズいから「間接」の部分で調整してるわけで。

今回は「間接」の部分が機能しなかった訳ですよね。
まぁ、参院選という「直接性の高いイベント」が控えているこの時期に出来した問題なので、議会システムの「間接性」が働きにくいタイミングだったことが枡添さんの不運だったというか、そういう時期に刺しに来たメディアの戦術勝ちというか、そういう展開だったんじゃないでしょうかね。

みなさん、大衆の衆愚性に疑問を持つのは良い。メディアがその衆愚性を煽るのは商売なんだからしゃーない。じゃあ、なぜその疑問をそもそもの「民主主義制度」そのものに向けないのか。
疑義を提示するなら、「民主主義というものはこういうものなので仕方ないという面もあるけれども」と断ったうえで、「俺は好みじゃない」と言えばいい。気に食わない現状を変えたいと思うなら、大衆をどう導けば民主主義社会がもう少しまともになるのか、どうしたら民度が上がるのかを考えないと。
私は無理だと思うので、あー不運な事故・もしくは壮大な喜劇がまた繰り広げられておるなぁ、以上の感慨を抱けないのでありました。

ふにおちホリック

私の中に存在する「腑に落ちたい」という欲望は、私の場合、「書いて公開する」ことによって一定の充足を見る。
たまに訪れる、この「腑に落ちる」という感覚には中毒性がある。ふにおちホリック。


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何かについて腑に落ちたとして、その知見は活かされ、実現されることによって、初めて意味のあるものとなるが、私の欲望はそこにない。
いや、ある。あるが、その不可能性には「腑に落ちて」しまっている。
実行力・実現力もしくは知名度が必要だ。私に実行力はないし、知名度によって実行力のある人にリーチすることもない。

命の線引き

http://www.cnn.co.jp/usa/35083483.html
米ゴリラ射殺 園長「同じことする」、保護者の責任問う声も

ライオンの檻でも似たような話を最近聞いた覚えが。

もうこれはしょうがない。
人間側の過失によって巻き起こされた事態ではあるが、人命が尊重されなければならない瞬間だったということです。
希少なゴリラと、バカな人間の子供。どちらの命が優先されるべきか。無論、人間の子供、となる訳です。

命の価値に線を引くとすれば、人間とそれ以外の間に明確で強固な線を引くとするしかない。
人間ではない生命を、線のこちら側の存在として位置付けてはいけません。
何故か。それは我々が人間だからです。

この、絶対不変の原則を曲げてはいけない、ということは、前にも言及しました。
(ブログ内検索しても、ググっても出てこないと思ったら、移行前のダイアリーの記事だったでござる。もう8年半前の記事ということに愕然としますわ。)

視野の狭い、先を見通す意志と力(想像力)を持たないバカたちは、目先の感情論に流されて「かわいそう」論をお垂れになるわけですが。
命の価値に差をつけて線引きせねばいけない以上(生きるとは、そういうことだという議論過程くらいは前提にさせてくださいな)、人間vsそれ以外という基準しかありえないということは、もう一度よく自覚しておく必要があるな、と。

民主主義は戦争を希求する (宗教的狂信性によって、民主主義と平和主義を唱える方に論破していただきたい議論)

▼ 「平和」、「秩序」というものの正体

「秩序」が、社会の構成員の身体・生命・財産が制度的に保全される状態と定義する場合において、とある社会で平和状態が持続するとどうなるか。
起こることは富の集積化であり、権益の既得化・保全化の進展である。人間は、「努力」によって他者との比較優位を目指し、「秩序」にその保全を求める。これは継時的に、世代を超越して進展する。比較優位にあるものは、遺伝的・環境的条件から、世代を通じてこれを進展させ、固定化を試みる。所謂、「格差社会」である。

前近代においては、社会の舵取りは、持てる優位性に基づき、特権的階級にある者たちの専権事項であった。社会指導の根拠は、(富や人的文脈における)優位性である。
かかる状況においては、比較劣位にある者が「平和的に」これを覆すことは不可能である。平和、すなわち秩序が、比較劣位にある者がこれを覆すことができない状態を指すのであるから、論理矛盾を起こしている訳ですらなく、定義がそれを禁じているとさえ言えそうである(※実際には論理矛盾であり、その他の前提をここで明示していないのでその論理矛盾を証明すらできていないことに注意)。


# 話は逸れるが、「家族を敬う」「家を大事にする」という価値感は、この優位性の継承に由来する。優位にある状況の根拠が出自に多くを依っているのであるから、その出自を大切にするのは当然と言える。これが道徳観・倫理観というレベルに演繹され、信仰じみたものにされると、「持たざる」階層の人間をその階層のまま固定化させる働きを持つことになる。「持たざる」階層の者がダメな親に足を引っ張られるように仕向け、ダメな親を切って階層に逆らおうとすることを倫理的に抑制し、そうしたものを差別する手段とした。

 


▼ 「民主主義」とは根源的に秩序破壊の思想である

さて、近代以降において「民主主義」が現出・発展した。資本の集積やテクノロジーと言った分野では、洋の東西の間で類似の発展を遂げたものが少なくない。しかし、こと政治体制という分野では、西欧のみで「民主主義」が奇形的発展を遂げた。

地政学的な類似性を超えた奇形的な発展であることを考えれば、キリスト教における倫理感・道徳理論の進展の奇形性がその要因(の少なくとも一つ)にあると思えてならないが、これも余談である。

古代の民主主義は、「民」たる自由市民と、市民権を持たざる「奴隷」(的身分)とを、根源的に断絶させるシステムであった。だが、近代民主主義は比較劣位にある階層に、政治的意思決定権(の一部)を与える思想である。比較劣位にある者は、当然に比較優位に立つことを望むが故に、比較優位にある者に比肩する階層に至る手段を望む。「比較」優位に至り得る手段の保証を民主主義が求めたとき、既に比較優位にある者にできることは対外戦しかありえない。社会内で彼らの機会を保証するということは、すなわち自分たちの比較優位性への保証を手放すことに他ならないからである。これは、既存秩序に対する挑戦であり、平和への挑戦であり、したがって危険思想である。
「世界民主主義」が成立しえない理由はここにある。全世界をひとつの社会と捕えてしまうと、外部が存在しなくなってしまうからだ。宇宙からの侵略者が現れて初めて、世界民主主義が成立するのだ。

 

▼ 西欧の特殊環境が民主主義を成立可能にした

さて、そのような危険思想たる民主主義が定着しえたのはなぜだろうか。
一つは、対外戦によって国内の比較劣位の者にその地位を脱する機会が与えられたからであり、それが可能な国際情勢であったからだ。
二つ目は、物理的強制力(=武力)の源泉が(若年男子の)「頭数」に依存するというテクノロジーと資本集積の段階にあったという状況であろう。

資本集積とそれに続く産業革命によって、「銃砲とその発射制御装置としての人間」が最大効率を産む物理的強制力であった時代に民主主義が進展している。
物理的強制力のために頭数が必要であったがために、意思を持つ彼らに「部分的に」その意思決定権を分与した(選挙権が長らく男子に限定されていたことも頷けよう)。
それ以前においても、物理的強制力の源泉は頭数であったに違いないが、富の格差が個人の戦闘能力(武装)に決定的な格差をももたらしていたがために、比較劣位にある者にその意思決定権を分与する必要はなかった。槍一本の足軽がフル武装の騎馬武者(や騎士)に太刀打ちすることに比べ、小銃を手にした兵が士官に反旗を翻すことの容易さは冷静に考えれば想像に難くなかろう。
「国への忠誠」「軍上官への絶対服従」が兵たちの基本価値観になっていたことも傍証である。そのように洗脳・宗教化しなければ物理的強制力たる「軍」が成立しないからだ。
近世日本は銃器を捨てた。
「外部」をなくした日本には、銃器は危険すぎたのだ。隣接する「外部」に恵まれていたならば、日本は対外戦を戦うために銃器を捨てなかっただろう。ほぼ唯一の侵攻可能たる外部であった朝鮮への出兵が社会に利益をもたらさないことを悟った徳川幕府は、意識してかせずかはともかく、銃器を捨てた。でなければ秩序を保ちえないからだ。

 


▼ 今なお民主主義制が持続しえているように見えるのは何故か

やがて、時代は進み、物理的強制力は再び「富」優位の時代に移った。20世紀の両世界大戦はそれを全世界に決定的に印象付けた。
だが、今なお、少なくとも建前上は民主主義を指向する体制の国家しか、ほぼ存在しない。これはいったいどういうことか。


・民主主義の宗教化

民主主義を否定する言説は、非倫理的であるという色彩を帯びて非難される。この現状を想起されたい。ここまで徹底的に宗教化されてしまえば、なかなか否定のしようがないではないか。

・富と武力の分断

現状においては、富と武力が分断されるにいたった。また、武力はその行使不可能性によって(核兵器を使えるわけがない)、富と結びつかなくなった。

・民主主義のふりをした共和制に過ぎない現状を、民主主義と思い込んでいる

間接民主主義と言う言葉の錯覚により、我々は民主主義していると思い込んでいるわけだが、実際に選挙に立ち、当選するのは特定の「持てる」階層の人間たちである。これは事実上の共和制だ。建て付け上、これを読んでいるあなたやこれを書いている私にもその機会がないわけではない。しかし、現実問題としては不可能だ。彼らはそのための訓練を、幼いころから積んでいるのであり、それは比較劣位にある我々には決して解放されない。

 


▼ 民主主義と世界平和が両立する条件を考えてみる

・世界平和のためには、抜け駆けの絶対禁止が必要

人間は「他者との比較」において幸福感を得る。劣等感や嫉妬心は「不幸」だ。しかし、「比較優位」への欲求を否定しなければ、民主的平和主義は実現しえないのだ。これは資本主義と根本から矛盾する。だから共産主義が生まれた。
だが、「比較優位」を禁ずるとして、それを実効あるものたらしむためには、それを管理する者が必要である。人間は根源的に比較優位を得たい生き物だからだ。
しかし、比較優位禁止のための管理者も人間たらざるを得なかったのが、これまでのテクノロジーの限界であった。共産主義の失敗はそこにある。管理者と被管理者の格差だ。ここには比較優位性・劣位性の格差が確かに存在する。


・機械による人間の支配

つまり他者に対する比較優位性を否定するためには、「人が人を裁く」ことがあってはならない訳で、であるならば比較優位を生じせしめる政治的意思決定プロセスを封じる絶対権力が必要になる。

そうなるともう、実行力ある神による支配しかない。しかし実際には、実行力を持つ神など存在しないのであるから、それに等しい装置をつくるしかない。

人格を持ち、生物学的には我々と同種の、ある特定人間を「人」ではなく「神」と規定することに依れば(すなわち定義を捻じ曲げれば)、あるいは可能かもしれない。しかし、それは「独裁制」「君主制」「専制」と何が違うのか。

民主主義が平和主義と並立しうるとすれば、民主主義による意思決定が抜け駆け禁止規定に抵触した場合の処罰権(これには許容されうる唯一の武力行使が含まれる)を行使する、人ならぬ装置が必要になる。機械による人類の支配と捉えることができる社会だ。
しかし、そうである時、民主主義による意思決定に、いったい何の価値があるのか。

 


▼ 差別と戦争 または 「愛とは何か」

さて、ここまでにおいて、「人間は比較優位に立つことを希求する生き物である」という前提に立って、民主主義と平和主義の両立不可能性を論じてきた。

では、「人間の比較優位性希求本能」の除去の可能性について論じなければなるまい。でなければ、「人間から比較優位希求本能」を除去すれば、民主主義と平和主義が両立可能である、と言うことになるからだ。

しかし、本稿も長くなりすぎた。
それについての論考は、またの機会(もしあれば、だが)に譲ることにしたい。

エッセンスだけ抽出すると下記のようになろうか。

比較優位性希求本能とは「差別」への欲求の事である
比較優位性気球本能の除去は、「差別」の廃絶を意味する
・しかし、一方で「愛への希求」もまた、比較優位性気球本能である
・我々の社会は、「愛」の否定を受け入れることが可能か
民主主義の宗教性と同等、あるいはそれ以上に「愛」の宗教性は強固ではないだろうか

・「努力」とは比較優位を得るための手段であり、比較優位を得ることに寄与しない行動は「努力」とは呼ばれない
・「努力」の否定は、当面不可能である
(「努力」を否定する社会は、現時点において存続不可能である)
・「努力」を否定しうる段階にまでテクノロジーが達した場合、我々は「努力」の有意義性を捨てることができるだろうか

 

屁理屈をつけて他人の行動を制限しようとする人の言うことは聞きません

もはや宗教論争の様相を呈してきた感のある喫煙者vs嫌煙者(≠非喫煙者)。

 
何度か言及していたような気もしますが、ちょっと古い記事ですが、気になる記事を見かけたので、またつい口を出してしまおうかと。
 
 
 
 
 
さてさて。
まず一つ目には、「禁煙運動」はナチズムに近しい活動である、という視点は持っておいたほうがいいということ。
うっすらとした世論の支持を背景に、特定の行動・人種を執拗に排撃する姿はまさしくナチズムです。
ちなみに禁煙運動は、ナチスも展開した活動です。
 
うっすらとした世論を背景に、「正義」の名の下に(今の嫌煙家が「正義」というワードを使うのは見たことがないですが、振りかざしているものにあえて名前をつけるとしたら、やはり「正義」なんじゃないかと。彼らの怒りは、やっぱり義憤じみた心境なんだと思います。)、少数派を糾弾するあり方は、まさにファッショ的であります。
 
実害を蒙ったことに抗議することと、難癖をつけて排撃することは異なります。
喫煙問題の場合、その境界にあいまいなものを含んでいることが問題を難しくしています。
 
性的マイノリティーに対するあり方の、喫煙問題と似て非なる部分が、この「実害性」にあります。
性的マイノリティーの人たちが彼ららしく振舞うことには、(今のところ)実害がありません。
したがって、彼らへの排撃はほとんどすべてを「差別」と括ってしまって問題がないのでしょう。
 
しかし、喫煙問題に関しては確認されている限定的な「実害」を根拠に、立証されていない「害の可能性」を持ち出して、「有害である」という排撃がなされます。すでに隔離されているにもかかわらず、です。
隔離の上、絶滅させるという手法は、ホロコーストを髣髴とさせるものがあります。
 
 
二つ目には、嫌煙者の論法が極めてレベルが低いということ。
嫌煙者は、「健康に害がある」をすべての根拠として喫煙者を攻撃します。
服についたタバコの匂いの有害性は立証されていません。
にもかかわらず、タバコの匂いが有害であるという不確かな根拠を元に、喫煙者を排撃します。
 
これが、交渉において、いかに稚拙な組み立てであるか。
「私はその匂いが嫌いなので、離れてもらえないだろうか」と語り掛けられれば、あなたに配慮してその場から立ち去ることもありえましょう。根拠がタバコの匂いが嫌いな人の内部の問題なので、議論は当人同士の関係性に依存することになります。語り掛け方が無礼であればカチンときて「うるせえだまれ」と言われてしまうかもしれませんし、丁寧に相談する形であれば「こちらこそ配慮が足りなかった」と飲み込めることもあるでしょう。
しかし、「タバコの匂いは有害なので立ち去れ」と語り掛けられればどうでしょうか。その要請には根拠がありません。事実でないことを理由に行動を制限される訳ですから、「こいつアホか」となる訳です。
 
ありもしない理論を根拠にするのではなく、実際に存在する個人の感情を根拠に「交渉する」方が、事実関係の正確性ではなく、人間関係の世界での戦いになるので、よほど勝ち目のある議論だったりするんですよね。
ことに、みんなが「臭い」と思っているという環境があるわけなので、人間関係での議論で情に訴えたほうが、相手も受け入れやすいのではないでしょうか。
 
 
このへんの議論の最たる例は児童ポルノ関連の話なんですがね。
「見てると不愉快だ」「俺は嫌いだ」なので、俺の目に触れないところに隔離してくれ、というのは話が通りやすいのですが、「性犯罪を誘発する」ので根絶してくれ、という話になると、エビデンスを出せよバカ、という話になる訳です。
 
 
 
 
また、先日の人口肛門の話もまさに好例です。
 
 
 
衛生上問題がある、といって抗議するのは、論点のすり替えな訳ですね。
私が気持ち悪いからやめてほしい、という抗議が素直でよろしい。
 
素直な気持ちの善良な発露であれば、共感は得やすいわけで、そこをスタートにしなければ、まともな議論などできないんじゃないでしょうか。